邦題:ハリーとトント
原題:Harry and Tonto
監督:Paul Mazursky
公開:(米国)1974年
(日本)1975年
(著:Dzi)
生きること、死ぬこと。年老いること、失うこと。
人間の綺麗さ、醜さ、儚さが約2時間に詰まっている。
生きるということに正しい形などない。皆異なる生き方に自分の幸福を求める。
その求め方は主体によって醜くも美しくも見えることがある。まさに生き方とは多様なものである。
しかし。年老い、失い、死ぬということはすべての人間に平等に訪れる。
このコントラストを各立場の異なる登場人物の心情とともに描いているのが、
「ハリーとトント」なのだと思う。
文章を考えることをサボる訳ではないが、この映画について、一つ一つの場面を考察したり、思想を論じてみたりすることはナンセンスなのかなと考え、端的にまとめようと思う。
人は年老いることで、自分の行き場を失う。仲間を失う。
久方ぶりにあった旧知は、昔とは姿形を変えている。
また、凝り固まった考えが故に煙たがられる存在にすらなりうる。
これは自然の摂理であり、我々も避けることのできない未来なんだと思う。
しかし、「愛情」がその老人を見捨てやしないのも事実で、これが人間やそれを取り巻く環境、動物の美しさだったりする。
「愛情」には多種多様な形があり、それは血縁はもちろん隣人であったり、はたまたバスや電車で隣になった人に対しても生まれる可能性を秘めている。
その対象は単なるペットであっても構わない。そう、トントのように。
私はあえてこの映画については描写に関することを、この場で述べない。
前述のヒューマニズムがすべてで、描写はその味付けにすぎないと考えているから。
年老いるということ、生きているということを、過剰な表現なく自然に道中に乗せて表現をしている、ロードムービの珠玉の名作だと私は思う。
何度見てもいいね、この映画は。
以上。
(著:hanea)
映画に疎い自分にとって、しばしば迷いのタネになるのが各映画の「ジャンル」の話。
正直な話、ミステリーとサスペンスの違いがよくわかっていないし、もしかしたらホラーとも区別がついていない可能性すらある(化物かお化けが出てきたらホラー?ぐらいの認識)。きっとこれぞこのジャンルの王道作!というものが頭の中にあれば、なんとなく頭の中に思い描けるものもあるのだろうけれども、現状そういうものが殆ど無いのでどうしても未知のジャンルに踏み込む事が出来なくて、いつも尻込みしてしまう。
今回お題は常々Dziがロードムービーの最高傑作だと太鼓判を多重連打しているので、自分の知らないこの「ロードムービー」なるジャンルは「ハリーとトント」が代表作として長く頭の中に保管される事になると思う。知らないジャンルについて自分の中に1本でも新しく柱を立てられるのは嬉しい事。
閑話休題。
本作は元教師?教授?の老人が住み慣れた家を離れ、飼猫と共に遠方の息子・娘を訪ねる道中を描く「ロードムービー」。道中に待ち構える様々な苦難を乗り越えて遂には最終目的地「天竺」へ…という西遊記のような御伽話ではなく、あくまで目的地には到着出来る前提で、その道中で知り合う様々な人々との交流を素直になぞる物語。一口飲んだら驚愕の美味しさでみるみる飲み干してしまった!という感じではなく、何の気なしに飲んでいて、飲み終わってみればそういえば随分おいしかったなあと感じる、何か品の良い珈琲のような味わい。何の根拠も意味もないけど紅茶って感じじゃなくてコーヒーっていう感じの味わい。
作品を見ていて1つ悔しいのは、老紳士ハリーの台詞はきっとウィットに富んでる素敵な冗談が豊富に含まれているのだと思われるけれども、自分にはそれを理解する知識が無くて所々は何かきっとうまいこと言ったんだろうなで終わってしまったところ。改めて調べる気力も器量も無いけれども、見る人が見たらフフッってなったのだろうな。
それと、大いに驚いたのが文化的な違い。ヒッピー文化のような国の違いというよりは時代の違いに依る差異はまあ置いて置いておくとして、旅の道中で不本意にバスから降りてしまったら、仕方なしに中古車買って歩を進めるという驚愕の選択肢にまず驚いた。そしてどの安宿に泊まってもおそろしくデカイベッドがあって、もうマシュマロでできてんじゃねえのかというぐらいフッカフカ。で、それに埋もれるように深く沈み込んで、ズブズブとのめり込んで眠る。国土の広い国は凄えなあ…。
本作はよく地味だとかドラマチックさが無い、だがそれが良い等と評価される様子だけれども、その評価は全くその通りで、どの場面から見始めてもゆったりと眺めて居られる安心感がある。暇だし、別に意気込んで新しい映画を見る気持ちでもないなあなんていう薄ぼんやりとした休日にはついつい再生してしまいそうな映画。
物語を動かす序盤こそ偏屈な爺さんといった感じの主人公だけれども、本質的なところでは自分がどこに行っても誰と会おうとも、そこはアウェイで本来自分の有るべき場所で無い事を良く自覚しており、必要以上に深入りもせず、かといって無関心に無視して通り過ぎるでもなく、自分から喋りかけて、人に人として接する温かみがあって心地良い。一期一会を気取って出会った事実を、無理苦里かけがえのないものに仕立てる事も無いし、過剰に別れを演出するわけでも無いし、上辺だけの時間潰しと言ってしまえばそれまでだけれど、赤の他人が隣にいてもお互いそれなりに自然体というのは主人公の人柄から出る妙味なんだろう。バスで偶然隣に座った人に対して「隣になったのも何かの縁だ、互いに自己紹介でも」みたいな語り出しは、ちゃんと人を見て人に好奇心を得ているのだろうなと思う(もしかしたらそれこそ文化的なものもあるのかもしれないけれども)。自分ならまず「何してるんですか」か「どこへ行くんですか」って聞いてしまうと思うなあ。ああいう飄々としているようで居て人懐こい爺さんになりたいもの。
最後に猫のトントについて。トントは登場人物というよりは物語を動かす上で欠かせない重要なアイテムとしての役割が強い感じ。猫に演技とか演出とか細かい話は無いと思うけれども、人間に抵抗して我を通そうとする事が全くの無意味である事を悟りきっていて、人間本位の共同生活によく慣れている。基本的には人間に担がれたら無になってだらーんと黙って担がれて行くし、たぶん人間が嫌がるぐらいなら何もしないで居た方が良いぐらいの事がわかって生きてる。それが嫌々やっているのではなくて、長い年月でそう培われたんだろうなあという感じ。たぶん演技じゃなくてあの猫の素だと思う。必要以上に媚びないけれど、何もかもガン無視というわけでもなく、猫として人の隣に居る自然が良く身についている。そんなところはハリーと似ていて、ハリーとトントで良い相棒、間柄だった。…だったんだなと。
終わり。
************** 次回 2015年10月第3週 お題作品 ***************************
作品タイトル: 「ヒポクラテスたち」(1980年)
監督:大森一樹
出演:古尾谷聖人 伊藤蘭 柄本明 内藤剛志 森本レオ 他
よし。じゃあ次はうって変わって青春映画だ。hanea一部分だけ既見。
話の内容まるで覚えておらず。いつか一度通して見ようと思っていた。
いつか通して見て欲しいと言われて、うんいつか一度通して見たいな
と思った事だけ覚えてた。

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